そうして彼女は空へ海へ土へ還った。
手の中から風に乗ってハラハラと舞う、灰となって。





喉の奥で、





彼女の名前は知らない。僕も教えていなかった。彼女はそれを知ろうと思わなかったし、僕も同様に、それは必要ないと思っていた。僕ら個人を識別するための記号のひとつでしかない「名前」に、僕らは興味などなかったのだ。




ある日彼女は言った。
「私が息をしなくなったら、私のからだは空と海と土に還してね」
不思議な言葉だった。だけれどそれはとても魅力的な響きを持って、僕の中に当たり前のようにストンと落ちてきた。
「それじゃあ、僕が目を開けなくなったら、同じように還してね」
「ええ、約束するわ」









そうして月日は流れ、だけれども僕らの間の時間は流れることはなかった。お互いに名前すらも知らないままだった。だから好物だったり故郷であったり、とにかく僕らはお互いをほとんど知らないままだった。



たった一つ。
僕らの共通点があった。





海、だ。









朝焼けと夕焼けは、空と海が一番愛し合う時間だと思う。
太陽という子供を両者が愛して抱き上げる瞬間、辺り一面はそれはそれはきれいな色に染まる。空と海の境界線がなくなって、そしてほんのひとときだけ両者はひとつになる。
僕らは決まってその時間だけは言葉を交わさなかった。そうして二人で、空と海が融け合っていく様を、この世で一番美しいものを見る目で見つめていた。呼吸をする音さえも、聞こえそうな程な静寂の中で。
僕らが焦がれるものは目に見えるものだけではなかった。
どこまでもどこまでも広がる土を抱き込むように、あるいは支えられるように海は続いている。固くてけれどとても柔らかいその土がいなければ、形を持たない海は存在し得ない。深い深い海の底には、海よりもずっと深いところで横たわる土がいる。目に見えない、ずっと深いところに。僕らはそんな土の上に体を預け、そうして海に包まれることが出来ないだろうかと夢見ていた。









僕らは海に焦がれ、だけれど報われない日々を過ごしていた。だからと言って苦しいこともなく、ただ網膜に焼き付けることが楽しくて仕方がなかった。



長くは続かなかった、けれど。





彼女と過ごした最後の日に彼女は言った。それはそれは嬉しそうに浮かべられた柔らかい笑みは、それでいてどこか悲しげだった。今まで見たどんな時よりも、その顔は苦しみで満ちていた。
「私の夢がね、叶いそうなの」
あの深い深い海に沈んで、横たわるのよ。
彼女は遠い青を見つめながらぽつりと零した。「それにはあなたの助けが必要なのよ」と、そこでようやく彼女のふたつの青は僕を捉えた。
「約束を、覚えている?」
僕はこくりと頷いた。ああ、彼女は還ってしまうのだ。なぜだか分からないけれど、僕はわかってしまったのだ。
「それじゃあ、よろしくね」














そうして今、彼女は僕の手の中にいる。さらさらと風に乗る。もう半分の「彼女」は還っていってしまった。彼女はこれから空に、海に、土になるのだろう。
彼女がいなくなる前に僕に触れた手は、あたたかかっただろうか。忘れているはずはないのに、どうしても思い出せなかった。変わりに焼き付いて離れないのは、彼女のふたつの青に飲み込まれた僕だった。「どうして、」僕の声は彼女に届いていたのだろうか。僕はあの時、僕の頬に流れたひとすじの名前を知らない。
名前は、知らない。
彼女の名前も。
胸を締め付ける痛みの名前も。







すぅ、と息を吸い込んだ。青の匂いが、僕の体内を満たしていく。
「ちがうんだ」
一際大きな風が吹いて、あっという間に僕の手の中に残っていた「彼女」をすべて連れ去ってしまった。
「きみのなまえは、」




声にならない声で


名前を呼んだ


(ほんとうはしっていたんだ。)


(110405)
Title by ユグドラシル