スケープゴートは綺麗に笑う
宝物があった。
あの日からずっと、空のままの金魚鉢。
千里子が「いなく」なってから、私の時間もあの金魚鉢の時間も止まってしまった。
千里子は私の双子の妹だ。
姉の私よりもとてもしっかりしていて、面倒見の良い、素直でとても良い子だった。
私達の楽しみは、金魚鉢の中にビー玉を集めることだった。
金魚の代わりに、赤や黄、緑や青のガラス玉を詰めていた。
小学校に上がる少し前あたりだったか、千里子と遊んでいる時に一つのビー玉を見つけた。
初めて目にしたそのガラス玉は、私達の目にとても輝いて見えた。
宝石のような美しさを持ったそれを、光に当ててうっとりと眺めていた。
千里子もそれをいたく気に入り、それならば二人の宝物にしようということになった。
引き出しの中に仕舞ってしまうのは勿体ない。
それに二人の物だから、いつでも好きな時に眺められるのがいい。
その時、恐らくほぼ同時に私達は閃いた。
「あの金魚鉢に入れよう」。
「あの金魚鉢」というのは、少し前に父に買って貰った物だった。
夏祭りに行くことにしていたのだが、この季節にしては珍しい雨が降ってしまい、
千里子と二人で楽しみにしていた祭りは中止になってしまった。
屋台が出るかもわからない金魚すくいをする気で、その上まだ居もしない金魚のために
父におねだりをして買って貰ったのだ。
結局金魚を飼うことはなく、空の金魚鉢は虚しく口を開けていた。
そんなことがあった後だったので、私達はとてもはしゃいだ。
千里子と手を繋いでガラス玉を手に家へ帰る足取りは、まるで足に羽が生えたように軽かった。
それからというもの、千里子と揃って出掛ける時には、無意識のうちに地面を眺め歩いていた。
光る宝物は落ちていないかと、お互いが小さな丸い玉を探していた。
今にして思えば、どうしてあそこまでビー玉に魅力を感じていたのだろう。
ガラス玉の中で描かれた、色とりどりの模様は私達を落ち着かなくさせた。
それから一つまた一つと、少しずつ金魚鉢は色で満たされて行った。
小学校を卒業して、中学校も卒業して…気付けば高校生になっていた。
その頃にはビー玉にとてつもない魅力を感じることはなくなっていたが、
それでも私達の「宝探し」は続いていた。
もはやそれが使命であるかのように、道端の隅を気に掛けながら歩いていた。
友人にそれを話せば「…それ面白い?」と酷く真面目な顔つきで私の神経を疑うように問われた。
面白いかどうかは問題ではなく、ある種の「願掛け」だった。
幼い頃に母親を亡くしていた私達はいつの間にか、
「金魚鉢がビー玉でいっぱいになったら母に会える」と信じていた。
本気で信じていたわけではなかった。
ただ、理由が欲しかったのだ。
…ああ、千里子。
どこへ行ってしまったの。
「千里子」
金魚鉢を抱えてその穴の中に声を落としても、彼女は帰って来ない。
彼女はある日突然消えたのだ。
大学生になりそれぞれの道を進んだ私達は、それぞれが別々のアパートで一人暮らしを始めた。
三度目の夏休み、毎年そうであるようにその年もまた千里子と予定を合わせて実家へ帰省した。
金魚鉢は私達がこの家を出た時から変わらず、窓辺に置いてある。
ふと千里子が、「万里ちゃん、『宝探し』に行こうよ」と言い出した。
久しぶりに聞くその言葉に、高揚感は抑えられなかった。
どうしてあの時、あの頃のように手を繋いで行かなかったのだろう。
「今日は別々に探してみようか。私はこっちに行くから、万里ちゃんはそっちね」
柔らかく笑む千里子に反論する言葉などなかった。
それきり彼女はいなくなった。
ああ千里子、どこまで探しに行ってしまったの。
何の手掛かりもなくあなたは消えてしまった。
それに、どうしたことかあの日以来、私達が長年かけて集めてきたビー玉も金魚鉢から消えてしまった。
私と千里子の宝物。
私の中の千里子との思い出までもが消えてしまったようだった。
空っぽの金魚鉢は、私の心そのものだった。
大学最後の夏。
早々に就職先を決定した私は、長い長い夏休みを実家で過ごすことにした。
父しかいない家は、とても広いように思える。
昔ながらの平屋で、これぞ日本家屋と言えそうな古い家だ。
廊下を歩けばギシギシと軋むし、冬には隙間風に泣かされることも少なくない。
立て付けの悪い引き戸は開閉に苦労する。
しかし私は、この家が大好きだった。
古めかしい感じがどことなく落ち着くのだ。
私がこの家で一番気に入っているものが、廊下の先にあった。
黒いダイヤル式固定電話だ。
突き当たりにあるその一角は、電灯の明かりも十分に届かず薄暗い。
呼び出し音がけたましく主を呼べば、部屋からそこまで辿り着くのに少々時間がかかる。
寒い季節、炬燵でぬくぬくとしている時に呼び出されれば、なかなか這い出ることが億劫になる。
そんなに不便な物ならば、いっそ買い換えてしまえばいいのだろう。
しかしどうやら、電話線を引く関係上そこにしか設置が出来ないようだ。
詳しくは知らないが、父がそんなことを昔言っていた気がする。
回線云々よりも、父がその電話を大層気に入っているからだと、私は密かに思っている。
生前の母との思い出の品だそうだが、電話が思い出の品とは一体どういった経緯を
辿ったのだろうかいささか疑問ではある。
…母の名前を聞いたからというわけでもないが、気付いた時には私にとっても大切な電話となっていた。
きっと、今父が買い替えると言えば私は是が非でも、体を張ってでも引き止めたい。
今となっては父しか住んでいない家では、電話が鳴ることは滅多にない。
私自身も携帯電話を持つようになってからは、ずいぶんのあの音を聞いていない。
ああ、あの音を久しぶりに聞いてみたいなあ。
そう思っていた直後だった。
ジリリリリン
私の心の中を見透かしたように、そしてそれを見計らったかのようなタイミングで電話が鳴った。
耳朶を打つその音は、一歩近づく度に様々な響きを以て私に降り注ぐ。
不安、恐怖、喜び、悲しみ、切なさ…それはある種の予感のもののようだった。
久しぶりに手に取った受話器は、真夏の午後の暑さを知らないままにひんやりとしていた。
「…はい、××××です」
暑さなど部屋の中に置いてきたように、すぅっと冷えていくのを感じた。
『もしもし?万里ちゃん?』
千里子だった。
間違えるはずがない。
確かに、千里子の響きを持っていた。
(110803)
Title by ユグドラシル