「ち、りこ…?」
『うん。そう。千里子。元気にしてた?』
電話口でふふっと笑う声がした。
その瞬間、私の脳内でも同じように幼い頃の彼女が笑った。


「今…、どこに、いるの…?」
喉がカラカラに乾いて、舌が喉に張り付いたようにうまく動かない。
『家よ。私と万里ちゃんが生まれ育った、家』
「え…?」
千里子は何を言っているのだろう。
今、家の中には私しかいない。
父は旧友と釣りに出掛けてくると言っていた。


『そっちは今、19××年?』
「?ええ、そうよ。19××年の8月10日。それがどうかしたの?」
電話の向こうで、千里子が小さく「やっぱりそうなのね…」と漏らすのが聞こえた。




『こっちはね、今20××年の8月10日よ』


ちょうど10年後の日付だった。
千里子が何を言っているのか、すぐには理解出来ず言葉が見つからない。


「、?」
ふと、遠くで祭り囃子の音が聞こえた。
「祭り…?」
『え?ああ、そうよ。今日は夏祭りの日なの。よくわかったわね。もうすぐ花火が上がる頃だわ』


向こうは夜なのか。
なぜか冷静にそう判断している私がいる。


『昔と違って、もう蛍はほとんど居なくなっちゃったわ。
…ああ、そうだ。ねぇ万里ちゃん、まだあの黒いダイヤル電話はあるの?』
どこか浮き浮きとした声音が耳元で弾けた。


「ええ、もちろんあるわ」
私の目の前に。
「今もその電話で話しているのよ」
なんだかおかしくなって、私の口調までスキップしそうだ。


『そうなの。羨ましいわ。私が今かけている電話はね、プッシュボタンなの』
なぜかその時、電話コードをくるくると指に巻き付けて、頬を膨らませる千里子の様子が浮かんだ。
そういう癖を持っていただろうか。


『少し前に、とうとう電話機が壊れちゃってね。それでお父さんが買い替えたの。
私、あのダイヤルの回るジーって音と、それが元の位置に戻るまでの時間が好きだったのに』
確か、幼い頃の千里子も同じことを言っていた。
「そうね。私はどうもあの待ち時間が煩わしかったけれど」
今ではもう、この家にいても携帯電話しか使わなくなってしまった。
あの待ち時間も、今となってはとても懐かしい。
今度、久しぶりにこの電話を使ってみようか知ら。



















その後も、他愛もない話に花を咲かせた。
なぜだろう、千里子は今ここにはいないのに。
私の思考回路は、この不思議な現象に疑問を持つことを放棄した。









『…ねぇ、万里ちゃんに…会いたいよ…』


いつも笑顔でしっかり者の千里子とは思えない声で、彼女は呟いた。
私の握っている受話器に、ぽたりと涙が落ちた気がした。



















千里子によると、あの日『宝探し』から帰ると、そこはもう当時の私達の家ではなかったそうだ。
一体どの段階で時空を超えてしまったのか、千里子本人にもわからなかったらしい。

では10年後の世界へいきなり飛ばされて混乱しなかったのかと言えば、そんなはずはなかった。
しかし千里子本人がどんなに困惑しても、「あちら」の私や父は全く気付かなかった。



いつの間にか千里子の姿は10年後のそれになっていたのだ。



鏡を見た千里子本人は大層驚いた。
けれど彼女の凄いところは、そんな状況にもすぐに慣れてしまったことだ。
昔からポジティブな彼女だから、「こうなってしまったものはしょうがない」と腹を括ったらしい。
…とてもじゃないが私には真似出来ない。









そんなわけで、千里子は今日まで10年分の時間や思い出を持たないまま、私よりも未来を生きている。
双子という形でこの世に共に生まれ出てきたのに、なんと皮肉なことなんだろう。




「あちら」には元々千里子はいなかったのだろうか?
そう尋ねると、彼女もそれはわからないらしい。
けれど「あちら」でもう一人の自分に会ったことはないらしいというから、
時間軸は違うにしろ世界はよく出来ている物なんだろう。









そして、今日。
ふとなんとなしに、家の電話から1本の電話をかけたそうだ。
「かかるわけがない」と遊び気分で、私達の家の電話番号を「プッシュ」した。


通常ならば、自らの電話機に繋がることはなく、「プーッ、プーッ」という無機質な音が延々と続くだけだ。
それなのに、千里子のかけた電話は過去の、私から言えば現在の電話に繋がってしまったのだ。









『ねぇ万里ちゃん。私達、もう会えないのかな…?こっちの万里ちゃんも大好きよ。
でもやっぱり、私と同じ時間を生きた万里ちゃんはあなただもの。
こっちの万里ちゃんには10年分の思い出があるのに、私にはないの…』
千里子の声が、ほんの僅かに震えている気がする。
「千里子…」
目の前にいれば、すぐにでも抱きしめてあげられるのに。
何も出来ない自分が、酷くもどかしく悔しく感じる。
大切な私の家族が、この細い回線で繋がった未来で泣いているというのに。
「泣かないで千里子。こうして電話が出来たんだもの、いつかきっとまた会えるわ」
そうだと信じさせて。
目の前にぶら下がった希望の糸ににしがみついた途端、それが切れてしまうなんてこと。
私の心が折れてしまうわ。
『うん…』
きっと千里子も願っている。
だけど同時に、そんな可能性はほとんどないと、どこかで冷静に考えている。
私と同じように。




「私達は一体いつになったら、出会えるのか知ら…」




吐息に混じって零れ落ちた言葉は、千里子に向けたものなのか自分自身へのものなのか。









「だけどね、千里子。こうしてもう一度話せたことも、きっと凄い奇跡だと思うわ」
『うん。私もそう思う』
少しだけ千里子の声に明るさが戻った。
「だから、これだけ言わせて」
『…なぁに?』




「おかえりおかえり、


ずっと待ってたよ」


(姿は見えなくても)(私のところへ帰ってきてくれたのね)


(110803)
Title by ユグドラシル