彼が死んだ時、私の心は驚くほど冷静だった。
悲しみよりも悔しさよりも何よりも、「とうとう逝ったか」という思いだった。
いや、「とうとう」よりも「やっと」の方が適切かもしれない。
ともかく私には彼を喪ったことによる喪失感というものはなかった。
だからと言って、私が彼のことを嫌っていて、心底清々したというわけではない。
むしろ唯一無二の親友であった。
彼は生前からどこか生き急いでいるようで、ことあるごとに「死」というテーマを口に
していた。
40代が終わるまでには死にたい、と言っていた。50代まで生きるのは嫌だとも。
まだ成人を迎えて数年しか経たぬある日のことであった。
年老いていくことが嫌なのかと聞いたら、少し違うと苦笑していた。
生きていく意味がわからない、生きていくことに威圧感を感じる。
そう告げた表情は決して絶望や虚無を湛えてはいなかった。
しかしそんな仄暗い言葉を吐きながらも、彼は人生を、毎日をとても楽しんでいるよう
であった。
毎日が楽しくて堪らないというのが、目に見えてわかった。
一日一日を無駄にしたくないというように、毎日を必死に楽しみ懸命に生きていた。
彼には多くの友人がおり、毎日のように誰かしらと会い語り飲み交わしていたようだ。
元来人付き合いが苦手な私は、そのような賑やかな場に居合わせたことは数えるほどし
かないが、その時に彼が見せる表情は私を含めその場にいた者を魅了していた。
だが、そのような場所では彼は決して「死」を口にはしなかった。
一人でいることを嫌っていたのだろうか。
そんなはずはない。
彼が一つの事に集中すると、周りを一切遮断してしまうことを私は知っていた。
ある時は物書きとして、ある時は画家として、またある時は自らの体を鍛え上げるため
に。
不定期に訪れる彼のそれらに対する情熱は、人と接することも拒んだ。
ひたすら自分の世界に浸り込み、気が済むまで出てこようとしない。
邪魔をしてくれるなと、会話すらも煩わしいようでその時の彼から発せられる雰囲気は
ピリピリと肌に突き刺さり、ある種殺気のような異様な威圧感を持っていた。
だがひとたびその活動が終われば、彼はまたいつものように快活な表情を携え私の前に
現れた。
そのような事が繰り返されるうちに、私ははたと気付いた。
もしや彼は、自分の生きた証を遺しておきたいのではないかと。
形として、言わば己の分身をつくりだしているのではないかと。
「生」にこだわり、必死にしがみつきながら、「死」の訪れを今か今かと待ち望む。
なんと矛盾したことであろうか。
しかし死の訪れを望んでいるはずの彼は、それでいて死を何よりも恐れていた。
それに伴う彼を襲っていた焦燥感の正体は、ついに私にはわからないままであった。
ただ私にわかったことは、彼はこの世には場違いなんだろうということだけであった。
過去、あるいは未来の、別の時代に生まれていれば幸せであったであろうか。
どこか浮世離れした彼の言動は、時に私の心を大きく揺さぶり、また時として奈落に突
き落とした。
何とも形容し難い、不思議な人物であったように思う。
私が彼と最後に会ったのは一年ほど前で、言葉を交わしたのは三日前の電話口のことだ
。
言葉少なに彼は近況を報せてくれた。
今は物書きをしているのだ、と。
その時私は、おやと思った。
先に述べているように、彼が何かしらの活動中にこのような―つまり他人との接触を自
ら行うこと―は、これまでになかったからだ。
しかし小指の爪先ほどの疑問は、すぐに私の頭の片隅に追いやられた。
その時彼が書いていたものは、彼の死後数ヶ月後に発売された、自伝という名の遺書だ
った。
言われなければそれと気付かないものだが、長年彼と交流のあった私にはその内容は何
とも言えない感情を与えた。
わけもわからぬまま、私は涙を流し続けていた。
喜びと後悔と不安と恨みの込もった涙だった。
少しの水分と僅かな塩分が体外に排出された後、私の頭はずきずきと痛んでいたが、そ
の一方でとてもすっきりとしていた。
それから私の頭は一つの答えを導き出した。
そしてぽつりと零した。
やっと逝けたか。
窓も扉も閉ざした部屋に、眩い光が差し込んだような錯覚を受けた。
その光の中に、私は彼の笑みを見た。
それにつられて私の表情筋も僅かに動いたが、開いた口の隙間からこぼれたのは虚しく
乾いた笑いだった。
その時私はようやく、彼を喪ったのだと自覚した。
すとんと私の中に落ちてきたその事実は、私の心の真ん中に開いていた穴に、パズルの
ピースがはまるようにピタリと合った。
元々そこに収まることが決まっていたかのように、ごく自然で当然なことのように思え
た。
以来、「彼」という存在は形は亡くとも私の中に在り続けている。
明日でちょうど、30年になる。
ここ数日しばらく曇天が続いていたが、明日は気持ちの良い秋晴れになるようだ。
彼の好きだった花でも持って、墓参りに行こう。
途中、角の菓子屋で彼の好んでいた饅頭も買って行ってやろう。
そうしてあれこれと彼のことを思い出しているうちに、私の口元は緩やかに弧を描いて
いく。
思い知らされるのは
自分の無知と彼の罪
(願わくは、彼に光が降り注がんことを。)
(111124)
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